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東京高等裁判所 平成6年(う)1079号 判決 1995年6月29日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中三〇〇日を原判決の刑に算入する。

理由

一  本件控訴の趣意は、弁護人堀哲郎、同鈴木幸子、同深田正人及び同村木一郎共同作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

二  控訴趣意第二(訴訟手続の法令違反の主張)について

1  所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、原判決は、Aの検察官に対する供述調書二通(原審検察官請求証拠番号甲第一四号及び甲第一五号。以下、甲乙の番号は、原審検察官請求証拠番号を示す。)及び司法巡査に対する平成五年一〇月一三日付け供述調書(甲第一三号)中の、被告人が証拠とすることに不同意とした各部分についても、これらを刑訴法三二一条一項二号前段又は同項三号を根拠に証拠として採用して取り調べ、右各供述調書の各不同意部分も有罪認定の資料として用いている。しかし、右各供述調書の各不同意部分の取調べ当時、供述者であるAが我が国から出国していたということはあるものの、その一事をもって、右各条項に定める「供述不能」の要件を充たしたと解するのは誤りであり、出国するに至った経緯、再入国の可能性などを慎重に検討した上、供述者が「公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき」に当たるかどうか判断しなければならなかったのに、これらの判断を経ておらず、また、甲第二二号については、同項三号の適用要件である「特別特信状況」も立証されていなかつたのであるから、右各供述調書の各不同意部分を証拠として採用し取り調べた原審の訴訟手続には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反があるというのである。

2  この点まず、原判決が「証拠の標目」の項中にAの検察官に対する供述調書二通(甲第一四号及び甲第一五号。以下「本件各検察官調書」という。)及び司法巡査に対する平成五年一〇月二二日付け供述調書(甲第一三号。以下「本件司法巡査調書」という。)を掲記しており(なお、被告人が証拠とすることに同意して取り調べられたAの司法巡査に対する平成五年一〇月一四日付け及び同月一五日付け各供述調書(甲第一一号及び甲第一二号)も併せて掲記されている。)、「弁護人の主張に対する判断」の項における説示内容と合わせ考えれば、原判決において本件各検察官調書及び本件司法巡査調書が各不同意部分も含めて犯罪事実認定の証拠として用いられていることは明らかである。

3  そこで、原審記録を調査して検討すると、原審第一回公判期日(同年一二月二二日に、検察官から、本件経緯ないし犯行目撃状況等を立証趣旨として本件各検察官調書及び本件司法巡査調書の証拠調べの請求があり、弁護人(原審弁護人をいう。本項においては、以下同じ。)が右各供述調書につき、それぞれの一部に対する意見を留保するとともに、留保した各部分以外の部分については証拠とすることに同意するとの意見を述べ、その結果、右各供述調書の各同意部分について証拠調べの決定がなされ、その取調べが行われた。次いで、原審第二回公判期日(平成六年二月三日)に、弁護人が、右のように意見を留保した右各供述調書の各部分につき、いずれもこれを証拠とすることに同意しないとの意見を述べたが、検察官から、右各不同意部分につき請求の撤回はなく、また、請求を却下する旨の決定も行われなかった。そして、原審第五回公判期日(同年三月三〇日)に、検察官から、Aが同月一日に強制退去により出国して、日本国内に所在しないことを立証する証拠資料の提出があった後、本件各検察官調書の各不同意部分については、刑訴法三二一条一項二号に該当する書面として、本件司法巡査調書の不同意部分については、同項三号に該当する書面としていずれも取調べを求めるとの意見が述べられ、弁護人から、右各法条に基づく取調べは「然るべく」との意見か述べられて、右各不同意部分についても証拠調べの決定がなされ、取調べが行われたのである。したがつて、以上の手続経過に照らし、右各供述調書の各不同意部分についても、適式な証拠調べが行われていることは明らかである。

4  (一) 次に、右各供述調書の各不同意部分を刑訴法三二一条一項二号前段又は同項三号に基づき証拠として取り調べることができるかどうかみるに、関係各証拠によれば、Aが右のとおり原審第五回公判期日より前に強制退去により本邦より出国し、同期日には日本国内に所在していなかったことが認められる。すなわち、右各供述調書の各不同意部分について、同項二号前段又は同項三号に定める、供述者が「国外にいるため公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき」という要件に該当する外形的な事実関係の存在することは肯認できる。

(二) もっとも、所論は、供述者が国外にいるからといって、その一事をもって、右各号に定める「供述不能」の要件を充たしたと解するのは誤りであり、出国するに至った経緯、再入国の可能性などを慎重に検討した上、供述者が「公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき」に当たるかどうか判断しなければならないと主張するので、右各号の適用が許されないような特別の事情があるのかどうか検討すると、本件に関しては、関係各証拠に照らし、次のような経過がみられる。すなわち、本事件が発生したのは、平成五年三月三〇日ころであり、警察もその直後ころ事件発生の情報を得ていたものの、傷を負ったBほか関係者らの協力も必ずしも十分でなく、捜査にかなりの時間を要し、被告人が逮捕されたのは同年一〇月一一日であり、起訴も同月二九日にようやく行われたものである。事件の状況の目撃者であるAから事情聴取が行われたのも、さほど早い段階からではないものと窺われ、Aの司法巡査に対する同月一四日付け、同月一五日付け及び同月二二日付け各供述調書並びに検察官に対する同月一九日付け及び同月二八日付け各供述調書も、被告人が逮捕された後に作成されたものである。一方、Aは、就学の在留資格で本邦に入国したものであるが、同月二一日に在留期限が切れ、それまでに在留期間の更新や変更を受けていなかったため、平成六年二月一八日ころ入国管理当局によって身柄を収容され、同年三月一日に強制退去により出国するに至っている。

右のようなAが出国するに至るまでの経過に照らし、検察官は、Aが入国管理当局によって身柄を収容された同年二月一八日ころには、まもなくAが強制退去により出国するであろうことを知り得る状況にあったものと考えられる。さらに、関係各証拠によると、弁護人が、同月二五日ころ東京入国管理局において、Aと会って事情を聴取し、Aの弁護人に対する供述調書を作成していることが認められる。したがって、検察官においても、遅くとも右の時点には、Aが入国管理当局によって身柄を収容されていることを知っていたものと窺われるのである。そして、その際すでに、本件検察官調書及び本件司法巡査調書の各一部につき、弁護人から証拠とすることに不同意との意見を述べられていたのであるから、検察官が、Aが出国する以前に、Aを証人として尋問することを請求することができたはすである。しかしながら、検察官は、Aに対する証人尋問の請求を全く行っていない(弁護人も証人尋問の請求は行っていない)。とはいえ、その際証人尋問の請求をすることが実際上必要であったかどうかみると、弁護人が右各供述調書中で不同意とした部分は、量的にもそれぞれの調書の限られた一部分であり、内容的にも犯行の目撃状況そのものではなく、被告人及びBが駐車場で石を手に持ったかどうかということや、被告人が犯行直前に駐車場をいったん出て行ったことがあるかどうかということに係る部分であり、原審で弁護人が主張した正当防衛の成否に関連する事項とはいえ、その具体的な供述内容からみて、検察官がAの証言まで求めることは必要ないと考えても特に不合理であるということはいえない。すなわち、右のような実際上の必要性に照らし、検察官が、右各供述調書の各不同意部分を証拠とするために、Aが出国し証人尋問ができなくなることを殊更に利用しようとしていたとは到底認められないのである。

しかも、原審第五回公判期日に行われた証拠調べの状況をみると、前記のように、検察官から、本件各検察官調書の各不同意部分については、刑訴法三二一条一項二号に該当する書面として、本件司法巡査調書の不同意部分については、同項三号に該当する書面として、いずれも取調べを求めるとの意見が述べられたのに対して、弁護人からは、右各法条に基づく取調べは「然るべく」との意見が述べられたのであって、右各規定の要件の存否について特に争う態度はとられていないのである。加えて、弁護人は、同期日に、前記Aの弁護人に対する供述調書(原審弁護人請求証拠番号第一号)の取調べの請求を行い、検察官が証拠とすることに同意(ただし、信用性を争う。)との意見を述べ、これが証拠として採用され、その取調べが行われているのである。その供述内容は、右各供述調書の各不同意部分で述べられている事項と同一の事項に係るものである。そうすると、右各供述調書の各不同意部分でAの述べていることにつき、被告人(弁護人)は、法廷外でAに対し供述を求めたものとはいえ、弁護人が質問した結果得たAの供述を法廷に顕出することができたのであるから、法廷で直接に反対尋問はできなかったものの、間接的かつ不十分ながらこれを補うことができたということができる。

したがって、本件においては、右各供述調書の各不同意部分の証拠能力に関し、供述者であるAが国外にいて供述不能の状態にあるとして、刑訴法三二一条一項二号前段又は同項三号を適用することについて、手続的正義の観点から公正さを欠くとしてこれを妨げるような特別の事情は一切存在せず、右各号にいう、供述者が「国外にいるため公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき」という要件は、十分に具備しているものと認めることができるのである。

(三) また、本件司法巡査調書の不同意部分については、関係各証拠に照らし、刑訴法三二一条一項三号に定める「その供述が特に信用すべき情況の下にされたもの」という要件を充たしていることも十分に肯認できる。

すなわち、関係各証拠によれば、Aは、被告人とは被告人の妻の妹という関係にあり、一方、Bとは親しい交際を求められたという関係にあったことが認められるが、本件司法巡査調書に録取された供述全体として、その供述内容が特にどちらか一方に偏ったものとは認められない。また、本件司法巡査調書のみが他の調書と内容的に異なるものではなく、これを含めAの各供述調書は、部分的な記憶の食い違いはともかく、全体的な流れは一貫していて、前後矛盾するような部分もない。本件司法巡査調書の不同意部分も、そうした供述全体の状況の中で、特に他の部分と異なった様子を示しているものではない。しかも、関係各証拠によると、Aは、本件が発生してまもない同年四月三日夜に、入院中のBを病室に訪ねた際、AとBとの間の話合いの状況をカセットテープに録音するという措置を取っていた上、同年一〇月一四日及び一五日の両日にわたって警察から呼び出しを受けるや、右一五日に自ら自発的に右録音テープを警察官に対し提出していることが認められる。

AがこのようにBとの話合いを録音したり、その録音を自ら積極的に警察に任意提出したりしたのは、本件がAに関連して起きたものであることから、Aとしても、警察の捜査にも協力するなどして、正当な解決に至ることを望んでいたことを示すものと考えられる。そして、Aのこうした積極的に正当な解決を求めようとする態度は、Aの供述態度にも表れているものとみることができることに加え、右のように供述内容が、右不同意部分を含め全体的に、被告人とBのいずれか一方に偏ったものでないことと合わせ考えれば、本件司法巡査調書の不同意部分に録取されている供述は、刑訴法三二一条一項三号に定める「その供述が特に信用すべき情況の下にされたもの」と認めることができるのである。

5  以上要するに、本件各検察官調書の各不同意部分については、刑訴法三二一条一項二号前段に該当する書面として、本件司法巡査調書の不同意部分については、同項三号に該当する書面としてその証拠能力を認め、結局、右各供述調書の全部について証拠調べを行い、右各不同意部分を含めて右各供述調書を犯罪事実認定の証拠資料として用いたことには、何ら違法不当な点はない。したがって、原判決には所論指摘のような判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反はなく、論旨は、理由がない。

三  控訴趣意第一(事実誤認の主張)について

1  所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、原判決は、被告人が、Bの粗野で自己中心的な態度に怒りを覚えるとともに、その執拗な攻撃に対抗することにも疲れ果てて、これ以上素手(あるいは石)での対応を断念し、刃物によって相手を負傷させてその攻撃に終止符を打とうと考え、本件凶器の使用を決意して、いったんC荘に戻って台所から本件凶器を取り出し、これを現場に持ち返って、直ちに同人に対し(その後頭部に切り付けた後)、本件刺突行為に及んだ旨の事実を認定している。しかし、本件凶器であるナイフを持ち出し、これによる攻撃を加えて来たのは、Bであって、被告人は、C荘にナイフを取りに戻ったこともなく、また、Bの後頭部にナイフで切り付けたこともなく、逆に、同人にナイフを持ち出されて、それによる攻撃を加えて来られたため、被告人としては、身を守るため、夢中でナイフを奪い取り、瞬間的かつ本能的にナイフを前方に突き出したところ、たまたまBの右目付近に刺さってしまったものであるから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるというのである。

2  そこで、原審記録及び証拠物を調査して検討すると、原判決が挙示する関係各証拠を総合すれば、原判決が罪となるべき事実として認定判示するところは、正当として是認することができ、原審で取り調べたその余の証拠及び当審における事実取調べの結果を合わせて検討しても、原判決には所論のような判決に影響を及ぼすことが明らかな事実認定の誤りはない。以下に、若干補足して説明する。

3(一)  まず、関係各証拠を総合すれば、次のような事実が明らかである。すなわち、

(1) 平成五年三月三〇日午前三時ころ、浦和市ab丁目c番所在の駐車場(以下「本件駐車場」という。)において、B(一九六〇年七月二六日生)の顔面の、右目脇やや上方付近に、果物ナイフ(刃体の長さ約八・二センチメートル、最大幅約一・五センチメートル。以下「本件ナイフ」という。)が突き刺さるという事態が発生したこと

(2) Bが、同日午前三時二二分ころ、救急車で病院に運び込まれた際、本件ナイフは、外側から内側に向かって約四五度の角度で、刃体の部分のほぼ全部が顔面内部に挿入され、わずかにいわゆる茎(なかご)の部分(長さ約一・八センチメートル、幅約〇・三センチメートル)だけが表面に出て、柄は付いていないという状態で突き刺さっていたこと、本件ナイフの柄は、その後現在に至るまで所在が判明していないこと

(3) Bは、右のように本件ナイフが突き刺さったことにより、加療に約一年を要する右目の眼球破裂、強膜裂傷、硝子体出血、増殖性硝子体網膜症、白内障の傷害(以下「本件傷害」という。)を負ったこと

(4) Bは、本件に際し、本件傷害のほか、後頭部に二か所、平行する形でいすれも長さ約三センチメートル、深さ約一ないし二ミリメートルの切創を負っていたが、そのほかは、首、腕等いずれの箇所にも一切傷を負っていなかったこと

(5) 本件に際し、本件駐車場にいたのは、Bと、被告人及びAの三人であったこと

などの事実が客観的に明らかである。

(二)  そこで、本件駐車場で、Bの顔面に本件ナイフが突き刺さるという事態が発生するに至るまでの経緯をみると、関係各証拠によれば、概ね次のような事実が認められる。すなわち、

(1) 被告人、B及びAは、いずれも中華人民共和国から就学の目的で日本に来ていた者であるが、被告人とBとは、同じ日本語学校で勉強していたことから知り合い、Aは被告人の妻の妹という間柄であり、また、AとBとは、同じスナックで働いたとき知り合ったという間柄であったこと

(2) 被告人は、平成五年三月一〇日ころ、Aから、同じスナックで働く男にしつこくつきまとわれて困っているという相談を受け、同月一四日ころ、Bが、Aの住む浦和市ab丁目d番e号所在のC荘にやって来たことから、その男がBであると知ったこと、そして、被告人は、Bについてはかねてから好ましくない者と嫌っていたこともあって、同月二五日ころ及び同月二七日ころ、C荘の近くで同人に出会った際、同人に対しAにつきまとうなどしないよう文句を言ったところ、Bに強く反発されて、殴り合いの喧嘩までするに至ったこと

(3) 被告人は、同月二九日夜、Aと一緒にC荘にいたところ、翌三〇日午前一時過ぎころ、Bが訪れて来たが、アパート内で騒ぎを起こされては困ることから、Aと一緒に部屋を出て、Bとともに、一〇〇メートル近く離れたところにある本件駐車場に向かったこと

(4) 被告人は、Bと前同様の言い争いをしながら歩いていたが、本件駐車場に至る前に、同人から殴り掛かられ、そのため、互いに拳骨で殴り合ったり罵り合ったりしながら、本件駐車場にやって来たこと、そして、本件駐車場内で、二人で揉み合ったり殴り合ったりし、被告人がその場に倒れたことから、Bに体の上に乗り掛かられて首を絞められたりしたこと

(5) Aは、被告人の上にBが乗り掛かったときは、同人の体を引っ張って制止するなどし、また、同人に対し「あなたの奥さんに電話する」などと言ったりしたこと

(6) 被告人は、Aが右のように言ったのを聞いたBが、「これから電話しに行く。池袋に乱暴な友達がいるから味方してもらう」などと言って、近くのJR与野駅東口の方に向かって駆け出したため、AとともにBの後を追い、公衆電話で同人の掛けようとしていた電話をAが切るなどし、その場で再び被告人とBの二人が殴り合いを始めたこと

(7) そのうち、二人とも疲れて来たことから、いったん殴り合いを止め、一休みという形で、被告人が近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、その一本をBに渡したりしたが、もう一度本件駐車場に赴くことになり、三人ともそちらに向かったところ、その途中、またも被告人とBとが殴り合いを始めたこと

(8) 被告人、B及びAは、同日午前三時ころ、再び本件駐車場に戻って来たこと

(9) 本件駐車場は、一七台程度の自動車を置くことができる砂利敷のいわゆる青空駐車場で、東側に沿って通る道路との境は、その南東角の幅約五・九メートルの部分が出入口となっているほかは、高さ約一メートルの金網フェンスで区切られているところ、照明設備としては、右出入口の約一・六メートル南方にある電柱に、街灯が一つ設置されているだけで、当時、本件駐車場内は相当暗かったこと

などの事実が認定できる。

(三)  そして、本件駐車場において、Bが本件傷害を負うに至った際の状況等について、同人、A及び被告人は、それぞれに概ね次のような趣旨の供述をしている。

(1) Bは、原審公判廷において、証人として尋問を受けた際に、概ね次のような趣旨の証言をしている。すなわち、本件駐車場に戻って被告人から殴られるなどした後、被告人が、眼鏡をなくしたと言い出したので、自分は、持っていたライターを被告人に貸した。被告人は、本件駐車場内の地面を捜していたが見付からず、眼鏡を取りに行くと言って本件駐車場を出てC荘の方に行った。その間、自分は、口の中を切って血が出ていたのでそれを拭きながら、Aと向かい合って立ち話をし、同女に、電話を掛けることができなかったから、被告人に殴られることになったなどと言い、Aは、もうこれ以上喧嘩をしなくてもいいじゃないかなどと言った。二、三分して被告人が本件駐車場に戻って来て、両手を後ろ手にしたまま、まっすぐ自分の方に向かって走って来て、自分と向かい合って話していたAの斜め後ろ側に立った。被告人は、最初の眼鏡と同じものを掛けていた。そして、被告人は、Aに、Bを抱くようにしなさいと命に、Aは、左斜め前から両腕で自分を抱き締めるようにした。すると、被告人が、右手を頭の方に向けて上から下に振り下ろし、左手は横から回すようにして、その上半身を覆い被せて来るような感じで襲い掛かって来たので、頭を下げたところ、後頭部に連続的に衝撃を感じ、続いて、右のこめかみあたりに何かが当たり、頭の中が爆発したように感じ、痛みを感じた。自分は、「ああ、目が見えない。」と言った。手で顔を拭くと手に血が付いていたが、何が何だかわからなかった。その後、救急車で病院に行って初めて、突き刺さったのが本件ナイフであると知らされた。Bは、以上のような趣旨の証言をしている。なお、同人は、当審公判廷において証人として尋問を受けた際にも、被告人から受けた攻撃の態様に関して若干異なった点はあるものの、原審公判廷における右のような証言とほぼ同趣旨の証言をしている。

(2) また、Aは、検察官(二通)及び司法巡査(甲第一二号及び甲第一三号)に対する各供述調書中で、次のような趣旨の供述をしている。すなわち、被告人は、本件駐車場に戻ってから、眼鏡をなくしたと言い出し、Bから借りたライターで眼鏡を捜し始め、その姿が見えなくなった。その間、自分は、Bから、自分のところに電話を入れて連絡して来い、被告人とは一緒にいるななどと言われて、Bに対し、これ以上被告人とは喧嘩しないと約束してよ、今日はもう帰って下さいと言うなど、Bと夢中で話をしていたので、被告人がどこへ行っているのかわからなかった。被告人は、その後三、四分位して自分達のところに戻って来たので、さほど遠い場所まで行っていたのではなかったと思う。戻って来たとき、被告人は、眼鏡があったと言い、眼鏡を掛けていたので、どこかに落ちていたのを見付け出したと思った。そして、自分は、Bと向かい合い、同人と被告人との間に入った形となったところ、被告人とBか殴り合いの喧嘩を始めたので、これを止めさせようとしたが、どちらかの手拳か顔に当たって、倒れて気を失ってしまった。そのうちBが、「目が、目が、血が出ている。」と大声で叫び出したので、二人の方を見ると、Bは立っており、被告人は、Bと操み合う形で、ほとんど体がくっつくような感じでいたが、同人の右目あたりから大量の血が出ていた。その後、自分は、Bに付き添って救急車で病院に行く途中、同人の右目あたりを見たところ、細い木みたいなものが突き出ていたので、木のかけらか何かが刺さったのではないかと思ったが、後で警察の人からナイフであると聞かされ大変驚いた。Aは、以上のような趣旨の供述をしている。

(3) これに対して、被告人は、検察官及び司法警察員(乙第三号及び乙第四号)に対する各供述調書並びに原審公判廷における供述中で、概ね次のような趣旨の供述をしている。すなわち、自分は、再び本件駐車場に戻った後、Bと喧嘩になり、同人から石で頬を殴られるなどしたが、その途中で眼鏡をなくした。自分は、三、四分捜してすぐ眼鏡を見付けたが、その際に、Bからライターを借りたことはないし、また、本件駐車場を出ていったんC荘に戻ったこともない。その後、同人が、長さ七、八センチメートルの金属のような光るものを右手に持って、右肩あたりに刃先を上に立てるようにしているのが、街灯の光に反射して見えた。自分は、とっさにBが凶器を持っていると思い、危険を感じて、夢中で同人の右手首あたりを両手でっかんで凶器をもぎ取ろうとした。しかし、同人が激しく抵抗してなかなか手に持った凶器を離さなかったことから、結構長い時間奪い合いをし、同人の右手の指あたりに思い切り強く噛み付いたところ、凶器を握った手か緩んだので、凶器を奪い取り、すぐにこれを右手に握り、Bの顔面目掛けて肘を伸ばして思い切り手を前に出すような形で、向かい合った状態の同人の顔を突き刺した。自分は、その際に負傷等はしなかった。被告人は、以上のような趣旨の供述をし、当審公判廷においても、ほぼ同趣旨の供述をしている。なお、本件ナイフの柄に関し、被告人は、捜査段階の当初、柄は確かに付いていた旨述べていたが、その後検察官に対し、奪い取ってすぐに刺したので柄があつたかどうかわからないと述べるに至り、原審公判廷においても、ナイフに柄が付いているか全然気が付かなかったなどと述べていて、その供述に変遷がある。

4  右3の(三)掲記のB、A及び被告人の各供述は、内容的に一致しない点も多く、とりわけ被告人とBの供述は、本件ナイフをだれが持ち出したかなどの点に関して大きく食い違っており、また、Aの供述は、本件ナイフがBの顔面に突き刺さるという事態の生じた前後の状況などについては、あいまいな供述にとどまっている。しかしながら、B及び被告人はいずれも、右各供述中で、本件当夜、Bと被告人との間でかなり激しい喧嘩を行ったことや、本件駐車場において、本件ナイフがBの顔面に突き刺さるという事態が生じたのは、被告人が、その右手に持つ本件ナイフを向かい合って立つBに対し突き出したことによるものであることなどは認める趣旨の供述をしている。そして、B、A及び被告人の右各供述と、前記3の(一)認定の客観的事実や前記3の(二)認定の本件に至るまで経緯等を総合すると、被告人が、本件駐車場において、右手に持った本件ナイフを、向かい合って立つB目掛けて突き出して、同人の右目近くを突き刺すという行為に及んだこと自体は、疑いを入れる余地なく肯認できるのである。

さらに、前記(一)認定の本件傷害の客観的状況、すなわち、Bがその際負った傷が、顔面においては本件傷害一個だけであり、そのほかは後頭部の平行線状に負った浅い二本の切創はあるものの、手や腕などに防御創とみられるような傷も一切存在しないこと、本件ナイフが突き刺さった状態が、外側から内側に向かって約四五度の角度で、刃体の部分のほぼ全部が顔面内部に挿入され、わずかにいわゆる茎の部分だけが表面に出て、柄は付いていないという状態であったことなどに照らし、被告人が本件ナイフをBの顔面に突き刺した際の具体的態様は、次のようなものであったと認められる。すなわち、右のような本件ナイフが突き刺さった部位、角度、発生した傷の状態等からみて、被告人が、本件ナイフをBの顔面に突き刺した際には、互いに向かい合って立った状態にあったときであって、被告人とBとが取っ組み合ったり、腕と腕とを引っ張り合うなどという状態にあったものではなかったこと、そして、被告人は、本件ナイフを持つ手をほぼ自分の肩あたりの高さで真っ直ぐ突き出したものであって、その力もかなり強く、その結果、本件ナイフの刃体全部を一気に顔面内部に刺入させたことなどが認定できるのである。また、Bは、被告人から本件ナイフを突き出されるや、Bとしてこれを避ける間もなく本件ナイフで顔面を突き刺されるに至ったことも明らかである(ただし、本件ナイフが突き刺さった角度が、外側から内側に向かって約四五度であることに照らし、その際、Bが、たまたま顔をやや左に向けていたということがあり得るとともに、ナイフを避けようとしてやや顔を逸らすという行動に出たということも考えられなくはない。)。そして、Bが避ける間もなく本件ナイフで顔面を突き刺されたということは、同人にとって、被告人がナイフを突き出すという行為に出たことが、あまりにいきなりのことであって、それまで予期していなかった出来事であったことと窺えるのである。

5  (一) 以上認定のとおり、被告人が本件ナイフを使用して、これでBの右目近くを突き刺したことは明らかである。しかし、本件に際し、被告人がいつの時点から本件ナイフを手にするようになったのか、いいかえると、被告人がその場で本件ナイフを携えていたのは、どのような経緯によってか、本件ナイフの出所はどこかなどについては、原審で取り調べた関係各証拠を精査しても、これを明確にすることは困難である。なお、本件ナイフに柄が付いていたかどうかについても、前記3の(一)(2)認定のとおり、Bが病院に運び込まれた際には、同人の顔に突き刺さったままの本件ナイフには柄が付いておらず、また、本件後いずれの場所からも本件ナイフの柄は発見されてはいない。そして、前記3の(三)(3)掲記のとおり、被告人は、本件ナイフの柄に関し、捜査段階の当初、柄は付いていた旨述べていたが、その後は、柄があったかどうかわからない旨述べるなど、その供述は変遷している。したがって、結局、被告人が本件ナイフを手にした当時それに柄が付いていたかどうか、仮に柄が付いていたとして、その柄が、いつ、どのような経緯で刃体部分から脱落したのかについても、明らかではない。

(二) 所論は、被告人が本件ナイフを被告人の手に持った経緯について、Bが本件に際し本件ナイフを持ち出し、これで被告人に攻撃を加えて来たため、被告人は、身を守るため、夢中で本件ナイフをBから奪い取ったものである旨主張している。そして、被告人も、前記3の(三)(3)掲記のとおり、自分は、Bが長さ七、八センチメートルの金属のような光るものを右手に持っているのが見えたので、とっさに同人の右手首あたりを両手でつかんでこれをもぎ取ろうとしたが、同人がなかなか手に持った凶器を離さなかったので、かなり長い時間奪い合いをし、同人の右手の指あたりに思い切り強く噛み付いたところ、凶器を握った手が緩んだので、凶器を奪い取ったという趣旨の供述をしている。

しかしながら、被告人が右に述べるようにBの右手の指あたりに思い切り強く噛み付いたとすれば、当然にその噛み付いた部分は内出血などして、その跡が残ると思われるのに、前記3の(一)(4)認定のとおり、同人が本件直後病院に運び込まれた際、本件傷害と後頭部の切創二か所のほかは、同人の体には一切傷がなかったのであるから、被告人の右供述は、まずもってこの点て客観的状況と食い違うのである。また、前記4認定のように、本件ナイフが突き刺さった箇所、状況、角度、負った傷の部位、数、状態など客観的な状況からみて、被告人が本件ナイフでBの顔面を突き刺した際には、被告人がBとは向かい合って立った状態にあったものであり、二人が取っ組み合ったり、腕と腕とを引っ張り合うなどしていなかったと認められるところ、被告人が右に述べるような状態てBの持つ本件ナイフを奪い取って、その直後にこれを自分で使ったというのであれば、その際の二人の姿勢、位置関係等は、向かい合って立つなどというものではなかったと考えられ、その意味でも、被告人の右供述は、客観的状況と矛盾する。さらに、同様に、前記4認定のとおり、本件ナイフが突き刺さった部位、深さ、あるいはBの腕などに防御創なども一切ないこと等客観的な状況に照らし、同人にとって、被告人がナイフを突き出すという行為に出たのは、全くいきなりのことであって、それまで予期していなかった出来事であったと窺えるのである。ところが、被告人か述べるように、被告人がBの持つ本件ナイフを奪い取ったものとすれば、同人としては、被告人からの攻撃を避けるため、とっさに身構えるか、あるいは逃げ出そうとするなど、被告人が本件ナイフで襲い掛かって来ることを予期した行動に出るのが通常のことと考えられる。しかし、本件に際し、Bの実際の行動は、右のように被告人の突き出した本件ナイフを避けることもできずに、顔面に突き立てられたというものであり、到底これに符合しない。すなわち、これら客観的な事実関係に照らし、本件ナイフは被告人がBの手から奪い取ったものであるという趣旨の被告人の供述は、これを信用することができず、その他被告人の右供述を裏付けるような証拠は一切ない。したがって、右所論は、採用することができない。

なお、弁護人は、弁論において、被告人が、Bが持ち出した本件ナイフを奪い取ってその顔面を突き刺したということを前提にして、被告人の行ったことにつき正当防衛が成立すると主張しているが、右主張は、その前提において失当であり、採用する余地はない。

(三) 一方、原判決は、「弁護人の主張に対する判断」の項中で、犯行に至る経緯として、被告人が本件犯行直前にいったんC荘に戻って本件ナイフを持ち出し、本件駐車場に引き返して本件犯行に及んだとの事実を認定説示している。

この点に関し、前記3の(三)(1)掲記のBの供述中に、被告人が眼鏡を取りに行と言って本件駐車場を出てC荘の方に行き、二、三分して本件駐車場に戻って来たという趣旨の供述があり、また、前記3の(三)(2)掲記のAの供述中にも、被告人が、Bから借りたライターで、眼鏡を捜し始め、三、四分位の間、その姿が見えなくなったことがある旨述べた部分があり、さらに、C荘の台所の引出し内に入れていた刃物の中に、本件ナイフと似た果物ナイフがあったという趣旨の供述もしている(もっとも、Aは、右果物ナイフと本件ナイフとの同一性まで確認しているわけではなく、さらに、後日、同女の弁護人に対する供述調書(原審弁護人請求証拠番号第一号)中において、C荘には果物ナイフはなかった旨述べて、右供述を訂正している。)。そして、前記3の(二)(3)認定のとおり、本件駐車場からC荘までの距離は一〇〇メートル程度であったことから考えて、被告人が、二、三分ないし三、四分の間に、本件駐車場を出ていったんC荘に戻り、また本件駐車場に引き返して来ることは、一応可能であったといえる。しかしながら、この点に関して、被告人は、捜査段階から一貫して、そのような行動には出ていない旨供述している。また、Bの右証言及びAの右供述を総合してみても、被告人が、本件犯行直前に姿を消したことがあるという事実が認められるにとどまり、被告人が本件駐車場を出た後C荘に戻ったことまで認定することはできないのである。そして、その余の関係各証拠を合わせて検討しても、被告人が本件犯行直前にいったんC荘に戻って本件ナイフを持ち出し、本件駐車場に引き返して来たという事実は、合理的な疑いを越えて証明されたということはできず、したがって、原判決にはこの点事実の認定に誤りがあるというほかない。しかし、右誤認は、犯行に至る経緯に係るものであって、犯罪の成否に直接影響する事実に係るものではないので、判決に影響を及ぼすことか明らかということはできない。

(四) 以上要するに、本件に際し、被告人が本件ナイフを手にするに至った経緯は、本件全証拠によるも不明というほかないが、右経緯が犯罪の成否に直接影響するものではないので、この点についてはこれ以上の判断を要しないというべきである。

6  所論は、以上に検討した点のほか、原判決が「弁護人の主張に対する判断」の項で、犯行に至る経緯に関し説示しているところについて、細かくそれが誤りである旨主張している。しかし、所論が誤りであると指摘するところは、犯罪事実そのものに関するものではなく、周辺の事情に関するものであり、仮に原判決の認定に誤りがあっても判決に影響を及ぼすものではないから、これ以上個別的に採り上げて判断を示す必要はないものと考える。

7  以上から結局、原判決挙示の関係各証拠を総合すれば、原判示の罪となるべき事実は、合理的な疑いを越えて認定できるのであるから、原判決には所論指摘のような事実認定の誤りはない。論旨は、理由がない。

四  よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、平成七年法律第九一号による改正前の刑法二一条により、当審における未決勾留日数中三〇〇日を原判決の刑に算入し、当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して、被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松本時夫 裁判官 円井義弘 裁判官 岡田雄一)

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